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巻頭インタビュー いまを生きる

佐喜眞 保 さん

生まれてきて よかった

義肢装具士 佐喜眞 保 さん

死はひとしく全ての人に訪れる。
その時、人は土にかえる。
肉体を失うということ。
だが、人生の途上で、手や足を失う人がいる。
事故で、病で、若くして、老いて。
失わないまでも、正常な手足の動作が困難になったという人の数は多い。
義肢・装具を開発する作り手として、人々を支えてきた人。
穏やかな表情、屈託のない笑い声。

本文

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生まれてきて よかった(PDFファイル 2.1MB)

サイドストーリー

このインタビュー記事「いまを生きる」で これまで登場した人たちの中で、佐喜眞さんには最も長く話を訊くことが出来た。

最初に取材したのは、4月4日。
沖縄県国頭郡(くにがみぐん)にある金武町(きんちょう)の本社での取材。
終了後、那覇で佐喜眞さんの友人を交えて懇談。
次に東京へ戻って間もなく、幾つかの所用を抱えて佐喜眞さんが東京にやってくるという幸運に恵まれた。
この機会を逃す手はない。沖縄で写真撮影を終えていたが、更に良い写真をというボスの指示でカメラマンを手配し、仕事を終えた後の佐喜眞さんと合流した。
更に翌日、高校を退学した後、横浜で5年間勤めた鉄工所を、30数年ぶりに訪ねるというので同行させてもらった。
鉄工所があると思われる港北区日吉の、ある界隈でタクシーを降り、曖昧になってしまった記憶を手繰り寄せながら、家並を確認していくが、見つからない。
それは奇妙な時を遡る小さな旅だった。
勤めていた当時、周りは田んぼだったというその一帯は住宅が密集し、面影はない。
一筋さがし、路上にいた主婦に訊ね、また一筋探す。

おそらくはこのあたり、と確信をもったところに、鉄工所はなかった。 電話番号だけは沖縄の自宅に保管されていて、かけた電話が通じ、鉄工所時代の親方夫人と話す。親方は亡くなっていた。「今度、線香をあげさせてください」と佐喜眞さん。
東京最後の日、池袋のレストランで話を聞いたが、その時、私の歩き方が多少おかしかったのか、所持していたCBブレ―スを装着してくれた。私自身、関節痛ではないが、ややO脚ぎみの歩き方が、すっと真っ直ぐになったのを感覚する。

CBブレ―スを手に笑顔の佐喜眞さん
CBブレ―スを手に笑顔の佐喜眞さん

今回も記事を書くにあたって、書籍、ネット情報、過去に放映されたTV番組のチェックをしたが、とりわけCBブレ―ス使用者への取材などを重点的に行った。製品の信頼性を生の声で知りたかった。
装着した途端、歩行が劇的に楽になり思わず泣きだしたという80代後半の女性。
魔法にかかったようだった、という80代の女性。
9ラウンドまでしか出来なかったゴルフが18ラウンドできるようになった、という70代男性。
一方で効果が薄いという90歳の女性もいた。聞くと、歩く必要のない時は、全く歩いていない。
歩くのが辛いので、必要最小限にしか歩きたくないとのこと。

基本的にはこの装具をつけることで、積極的に歩くようになり、それによって筋肉がつき、さらに関節痛の緩和が進む、というのがこの装具の利点なのだが。

5月末、早稲田大学 教育・総合科学学術院の花田達朗教授にお会いした。
1年前から下肢装具とCBブレースを装着している。教授の場合は膝関節痛ではなく、ポリオ用の装具作りから始まった。

一歳でポリオを患い、以来、歩行のため右足に下肢と靴型の装具を着けているが、もっと軽くて歩きやすい装具、新しい発想の装具を作る人はいないかと長い間探していた。 一昨年、沖縄旅行で現地の知人の車に同乗していたとき、たまたま装具の不満が口から出た。するとその知人が「いい人がいますよ。紹介しましょう」と、そのまま金武町の佐喜眞さんの会社に直行したのだ。

下肢装具とCBブレースを装着した花田教授
下肢装具とCBブレースを装着した花田教授

これまでの経験から半信半疑だったが、佐喜眞さんの装具作りは丁寧で行き届いていた。
使う人の側に立った装具作りで、二度の修正を経て完成形に達したのが、今年3月であった。
その下肢装具は、素晴らしい出来栄えで、足が市販の靴に入るようになったために重い靴型装具が要らなくなったし、それまでと比較して全体で44%の軽量化が達成された。軽量化により、階段の上り下りが楽にできるようになり、歩き方もよくなった。また、それまで右足を外側に振って歩いていたのが、CBブレースを着けることで足を真っ直ぐに踏み出せるようになった。

教授の話を聞き、佐喜眞さんの物作りへの情熱、創意工夫、技術力の確かさを実感した。

小学校、中学校での辛い体験。
二歳の時、結核性脊椎カリエスを患い、以来脊柱を固定するため、毎日皮のコルセットを着けて登校していた。昔のコルセットは臭いを抑える処理が十分でなく、蒸れてくると強烈な臭いを発した。
「級友が嫌がっているのは、常に意識させられました」
コルセットで肉体を締め付けられ、その中に体が閉じ込められた数年間。
その体験は「異物」である装具を身につけることと重なる。
だからこそ、装具を開発するにあたって、ここまでの軽量化、装着感にこだわったのだろう。
自らの体験で、体が知っているのだ。

背丈が伸びず、瘤がある。
小中学校の頃は“イジメ”の恰好のタ―ゲットにされたかと想像したのだが、
「イジメられることはなかったですね。むしろイジメてました」
小学校高学年の頃には、すばしっこく、腕っぷしも強く、手が早かった。
学校では毎日のように何かしでかし、教室外の廊下で正座させられる。
ところが、一時間経っても、二時間経っても、佐喜眞少年は音を上げない。
教師も考えた。ひざの裏に竹ぼうきの柄をはさんで正座させる。これは痛い!耐えきれず、すぐに謝った。
その記憶が、 後に膝裏にブリッジを通して支える装具を開発するヒントになるのだから何が幸いするか分からない。

奥さまが半身麻痺の夫婦がCBブレ―スを生むきっかけとなったことは本文に記したが、その時にあった、いかにも佐喜眞さんらしいエピソードひとつ。
1年半、ひたむきに試作を繰り返し、ついに女性が歩けた時、周囲は興奮した。
以後、立て続けに同じような症状の3人に試すと、いずれもうまくいった。
今までに見たことのない装具。
これは特許だ!特許だ!と周囲の人たちが騒ぎ始めた。
その時の佐喜眞さんの反応。
「特許ってなんのことですか?」
それほど、そうしたことに無関心だった。
「自分の為になにかするのは、恥ずかしいけれど、人の為なら、思いきってやれる。自分の為だったら、ここまで出来なかった」

CBブレ―ス
CBブレ―ス

厳しい表情で作業を見つめる佐喜眞さん
厳しい表情で作業を見つめる佐喜眞さん

人生の盤上に、思わず打ってしまった「災い」や「間違い」の石が、最終的には、まるでオセロゲームのように全ての石が裏返り、「幸福」に変わってしまった。
半ば観光気分で出かけた北海道で、札幌からの列車を乗り間違えなかったら、妻・マチ子さんに会うことはなかった。
24歳の時、勤めていた 鉄工所の仕事で、高さ8メートルから転落することがなかったら、幼い頃患った障害がまだ残っていたことに気付かなかった。
そして、ゆくゆくは車椅子の生活を余儀なくされるところだった。
そもそも2歳の時、結核性脊椎カリエスに罹っていなかったら、このような人生は用意されなかったのだ。
北海道へ行った時、列車を間違え「幸福駅」へは行けず、「幸福」になった人。
てらいもなく「私は今、幸せです」と茶目っ気たっぷりに笑いながら言う。

妻・マチ子さんは脳性麻痺。
「結婚した頃は、俺がこいつを幸せにしてやる!と思っていました。ところが、ところが、助けられたのは私の方です」

義肢が作られている写真

(LA No.397)

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