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巻頭インタビュー いまを生きる

「その時」は家で

在宅看護研究センターLLP代表 村松静子さん

村松静子さん。
在宅看護研究センターLLP代表。1986年に民間の企業として「在宅看護研究センター」を設立。
当時日本では前例のない“開業ナース”として一躍、時の人となった。
2011年にはフローレンス・ナイチンゲール記章を受章。

日赤中央女子短期大学を卒業。日赤中央病院、秋田県立脳血管研究センター勤務後、日赤医療センター内のICU新設に関わり、ICU看護師長となる。そして五年後“開業ナース”へ。

本文

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村松静子 本文(PDFファイル 0.7MB)

サイドストーリー

毎度のことなのだが、取材前に対象者の著作や新聞記事、更に可能であればその人の映像記録などを探しチェックして取材に望むのだが、インタビュー後、その録音テープを聞くうち「この部分をもっと深追いする必要があったな」といったことや「これを聞いておけばよかった」といったことが必ず出てくる。

通常の場合、インタビュー時間は2時間に限られている。
取材対象者にそれ以上の時間は取れないだろうという思いから、他の媒体も通例としてほぼそんな取材時間になっているようだ。
無理を承知で、同じ2時間なら1時間を2回、2週間空けて行えれば、と思ってしまう。

今回の村松静子さんの取材。
実に様々なことをしてきた方なので、それぞれの要素を詳しく聞いていく時間が取れず、それぞれの話が浅いところで引き返すことになった。
それを補っていくのに村松さんが書かれた多くの書籍が随分役立った。
しかし、それでも幾つかの疑問、不明点が残り、更にはそれぞれのエピソードを肉付けするには物足りないものを感じていた。
異例のことではあったが、連絡を入れたところ、幸いにも再取材が可能となり、しかも更に2時間以上、話をお聞きすることができた。
その再取材が結果、本文に多く反映された。
聞けば、予定を変更してまで、応じて頂いたとのこと。
取材の一つひとつをおろそかにしない村松さんの人柄を見た。

隠し事が嫌い。話す言葉は明解で歯切れがいい。
話の中で具体的に人名が挙げられたり、日赤時代の院内での“いじめ”などが登場するが「書いてもらってかまわないんですよ」と臆するところがない。

青年海外協力隊に入ろうと思っていた時期があり、それが理由で郷里である秋田に戻り、秋田県立脳血管研究センターに勤めたという(海外協力隊に参加するには3年以上の現場実績が必要)。 ICU立ち上げに関わり、その実績が買われて日赤医療センター内のICU新設の重要ポストを任され、その流れから“在宅看護”へと進んでいく。 “広く海外へ”という思いが、“在宅”という最少単位の“家”へベクトルを変えていった人生の面白さ。

開業ナースを始めた頃
開業ナースを始めた頃

村松さんは2011年にフローレンス・ナイチンゲール記章を受章している。
赤十字国際委員会が各国から集まった候補者について審議選考を行って授与する。このこと自体、大変な難関だが、候補者を挙げてくるのは各国の赤十字社。
30年前、村松さんは院内の猛反対を押し切って日赤を辞めている。
日本赤十字社がかつて辞めていった村松さんを候補に挙げた、ということにも驚く。
村松さんの経歴を追うと、辞職後、設立されたばかりの日赤看護大学で数年教鞭をとっていたり、病院のベッドを納入するにあたって尽力したりと、様々な形で日赤に貢献している。
更には、日赤内に僅かだが絶大な支持者がいたということもある。
そうした辞職後の実績を考えれば、候補者として挙げられるべくして挙げられたといえるのだろう。

結婚は25歳の時。
2人とも山歩きが趣味だった。
今では休日になるべく自然に浸るべく公園や自然道の散策を心掛けている。
2人で語り合ったり、のんびり歩いている時、不思議と名案が浮かぶ。

花や木、ひょうたん等々、苗から育て、その成長を楽しんでいる。
長年飼っていた金魚、特に流金やメダカを飼いたいが、なかなかできずにいるという。

「神秘の世界・脳と心の結びつきを探究するのが唯一の趣味といえるかもしれません。
今は、『自分らしく生き抜く』という言葉の意味を考えることと、『感染と今の社会・医療』を、客観的に私流分析をしているところです」

(LA No.164)

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